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この世に送られた御子(2002年12月8日)
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信仰と思い違い その3(2003年2月16日)
信仰と思い違い その4(2003年2月23日)
あなたより先に出ているから(2003年3月2日)
栄光の望みキリスト(2003年3月9日)
平安・将来・希望の計画(2003年3月16日)
栄光の望みキリスト その2(2003年3月23日)
栄光の望みキリスト その3(2003年3月30日)
栄光の望みキリスト その4(2003年4月6日)
極限の救い -3つの十字架-(2003年4月13日)
キリストはよみがえられた(2003年4月20日)
恵みによる今の私(2003年4月27日)
キリスト者になるということ(2003年6月1日)
知っていることと行なうこと(2003年10月12日)
失望してはならない(2003年11月23日)
聖霊に満たされ(2003年11月30日)

聖霊に満たされ
      2003年11月30日 永井 逸郎師 メッセージ     

新約聖書 ルカによる福音書 第1章39〜45節

エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。



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エリサベツとザカリヤ
ルカの福音書に書かれているクリスマス物語には、エリサベツとザカリヤの夫婦が登場します。 エリサベツ、ザカリヤの二人は、それぞれ神様に出会い、その生涯が変わります。 そのことを端的に表現したのが「聖霊に満たされ」、という言葉です。

喜びの証し
神様に出会い、聖霊に満たされた2人はどう変わったのでしょうか。 エリサベツは、マリヤに会ったとき、イエスに対する信仰を告白しました。 ザカリヤは、イエスに関する預言をしました。その預言の中でザカリヤは 「われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを 許される」と述べました。イエスキリストが与える道はそのように、ひとりの人の 全生涯を通じて導かれるものです。

自分自身からの解放
ザカリヤもエリサベツも、「聖霊に満たされ」た後は、いたずらに自分について 語りませんでした。無意味な自己主張や、自分自身に向かう過剰な興味から 自由にされ、神の言葉を取り次ぐものとなったのです。



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失望してはならない
      2003年11月23日 野田 秀師 メッセージ     

新約聖書 ルカによる福音書 第18章1〜8節

いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえ を話された。



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失望してはならない、という戒めの意味
イエスは、弟子達に「失望してはならない」という戒めを与えています。 これは逆に、人がいかに失望しやすいものであるかを示しています。 イエスは、人の必要を満たすために、「失望してはならない」ことを繰り返し教え、励ましておられます。

人に失望し、神に失望する
人は、他人に対して失望します。最初は良く見えた人でも、その内実を見て失望した、ということが あります。人は、他ならぬ自分自身にも失望することもあります。自分を愛し、自分に期待することがあるから こそ、また失望することもあり得るのです。
また人は、神様に対しても失望することがあります。 聖書は、人が神様に対して失望した出来事を隠さず書いています。


神は失望しない
それでは、神様は私たちに失望することはあるのでしょうか。私たちが自分のありようを 正直に見つめる時、神は失望の連続を経験されているのではと思えるときもあります。
しかし、神様は決して人に失望なさりません。もし神が人に失望したのであれば、 クリスマスも十字架の救いもありませんでした。「いつでも祈るべき」とイエスは おっしゃいました。私たちはその祈りを必ず聞いていてくださる神に信頼し、歩もうでは ありませんか。



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知っていることと行なうこと
      2003年10月12日 芳賀 正師 メッセージ     

新約聖書 テサロニケへの手紙第1 5章12〜22節

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことについて、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに 望んでおられることです。



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素晴らしい言葉、だが
冒頭の聖句は、新約聖書の中で最も有名なものの一つです。様々な説教に引用されてきた、 素晴らしい言葉です。クリスチャンであれば、正確に覚えているという人も多いのではないでしょうか。
しかし、ここで私たちは振り返ってみますときに、なるほどこの言葉の貴さは知っているものの、 果たしてそのように生きていると、胸を張って言える人はどれくらいいるでしょうか。

キリストは実行不可能なことを言ったのか
私たちは、自分を省みたときに、この聖書の言葉の通りには生きていないことが分かります。 心に悩みを抱き、神に祈り願うことをせず、不平を言う、、、そんな時も往々にしてあるのでは ないでしょうか。この聖書の言葉は、行なうに難いと言うことが分かります。 そしてまた、新たな疑問が沸き起こってきます。イエスは、果たして私たちに実行不可能な難題を 突きつけているのでしょうか?

キリストの導きは、人を新しく創りかえる
ヨハネの福音書(イエスの伝記の一つ)の中には、「私にとどまりなさい」と 繰り返し弟子達に語ったイエスの姿が描かれています。イエスキリストの言葉を心にとどめ、 イエスの中にとどまりつづけることによって人は変えられていくと言うのです。
冒頭の「いつも喜んでいなさい」という言葉は自分の努力によって成し遂げるものではありません。 少し自分の気持ちのありようを変えれば済むというものでもありません。ただ、キリストの導き によって近づくことができるのです。




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キリスト者になるということ
      2003年6月1日 野田 秀師 メッセージ     

新約聖書 使徒の働き 26章24節〜32節

アグリッパはパウロに、「あなたはわずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている。」 と言った。パウロはこう答えた。「ことばが少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、 あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のように なってくださることです。」



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アグリッパの拒絶反応
冒頭に書かれている聖句は、ユダヤの王アグリッパが、使徒パウロをけん制するために 言った言葉です。この直前には、「パウロ。博学があなたの気を狂わせている。」という 言葉もあり、キリストを雄弁に語るパウロに対しアグリッパが怖れを抱いた様子が現れています。

わずかな言葉でキリスト者に
私たちが、教会に導かれるとき、あるいは聖書に魅かれたときに、アグリッパ王のような 怖れを抱くことがないでしょうか。こんなわずかな時間で、こんな少ない知識で、聖書の真理が 分かるのだろうか?という疑問もそれに当たります。しかし、聖書の真理というのは 長い時間をかけたら分かるというものではなく、信仰をもって受けとめるべき部分もあります。 また、聖書全体を完全に理解するといったことは、どのような賢者であっても不可能なこと かも知れません。

聖書の真理は、人を新しく創りかえる
それでは、聖書の真理を知る、とはどういうことなのでしょうか。
それは単に聖書に関する知識を蓄えることと、完全に等しいわけではありません。 聖書に書かれている神の愛が自分にも注がれていることを受けとめる、受け入れることなのです。 それが信仰のはじめであり、神との関係が結ばれることであり、聖書の言うところの「人が新しくされる」 経験なのです。




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恵みによる今の私
      2003年4月27日 野田 秀師 メッセージ     

新約聖書 コリント人への手紙 15章1節〜11節

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。



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使徒パウロとは
パウロは新約聖書の中で最大の功績を残した人物ですが、その生涯は不思議な変遷をたどっています。 彼は若いころは実は他の宗教のリーダーであり、教会を荒らしクリスチャンを迫害していた人物だったのです。

変えられたパウロ
聖書は若き日のパウロがいかにしてクリスチャンになったかということが書かれています。 そして彼はその後人生で一貫して、迫害者であったことを悔い、キリストを宣べ伝える者であったのです。 パウロは自分の力によって変わったのではなく、神の恵みによって変えられたのだ、と主張します。

恵みによって変えられる
神の恵みによって私は今の私になりました、というのは聖書に記されているパウロの言葉ですが、私たちの 信仰告白でもあります。私たちは過去において様々な面を持つものであり、また現在も将来も課題を持つものですが、 神が私たちをご自身に似たものに変え続けてくださるのです。


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キリストはよみがえられた
      2003年4月20日 野田 秀師 メッセージ     

新約聖書 コリント人への手紙 15章12節〜20節

そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがた は今もなお、自分の罪の中にいるのです。



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もしも
もしも、と私たちは考えることがあります。「歴史にifは無い」とは言いますが、それでも私たちは 歴史の出来事に、自分自身の人生に、「もしもあのときxxxだったら」と考えるのです。 時には、現実のありようとは全く逆の結果を考えてみます。そしてそのことが、 私たちに、その出来事の意味を深く分からせてくれることがあるのです。

もしもイースターがなかったら
十字架上で死んだキリストが、よみがえったとされるイースター。この事件は教会にとっては大事であっても、 常識的には荒唐無稽に聞こえます。しかし、もしもこのイースターがなかったとしたら、クリスマスの輝きも 色あせてしまいます。教会が抱いている希望とは、まさにイースターの喜びと共に2000年続いてきたものなのです。

もし地上の生活だけに希望を置くのなら
もしもイースターがないのなら。もしも教会が地上の生涯においてのみ繁栄を望み、神秘なる神ご自身を望まない なら。そのように聖書は警告を与えています。むろん、私たち一人一人の人生はかけがえの無いものです。 しかし、そこにのみ目を向けて生きるのではなく、愛する人々と再び出会うことのできる世界にも 目を開かれて生きるのです。


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極限の救い -3つの十字架-
      2003年4月13日 舟喜 信師 メッセージ     

新約聖書 ルカによる福音書 23章32節〜43節

ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。「どくろ」と 呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは 右に、ひとりは左に。

注:「ルカによる福音書」は紀元60年頃にパウロの友であるルカによって書かれた。 引用箇所は、イエスキリストが十字架刑を受けた際に、両脇にふたりの犯罪人も十字架につけられた 場面を表す。

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十字架とは何か
イエスキリストの生涯は、十字架刑に処せられ死に至らしめられることで、その幕を閉じます。 冒頭の聖書箇所は、その際にイエスキリストは他の犯罪人とともに十字架につけられたことを 表しています。実はこの死が、キリストが犯罪人のように屈辱の中で刑罰を受けたことが、聖書の示す事柄の中で 最も重要なことであり、キリスト教の中心をなすものなのです。

十字架は神のみわざであり、理解されにくい
聖書は、キリストは人の苦しみを負い、その死に至るまで従順に耐え忍んだことで 人が救われたのだと説いています。神によって計画され、成し遂げられた、人の 救済のわざなのです。
これが何とも不思議な、分かりにくい教えであることは、聖書自身にも書かれています。 キリストが十字架にかかるであろうことを弟子たちに伝えたときの、 彼らの拒絶と不安に、十字架の不可解性が表わされています。

十字架の上で最後になされた救い
民衆は、十字架上の3人にではなく、特に主キリストに罵声を浴びせかけました。「他人は救えたが、自分は 救えない」「自分を救ってみろ」、これらの罵倒に主は終始、無言で耐え、さらに民衆の罪が 許されるように祈ったのです。このキリストの沈黙に、聖なる神の臨在を感じたのでしょうか。とうとう 十字架上の犯罪人がキリストに「イエスさま。あなたが御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」 と告白するにいたるのです。イエスは、彼に言われました。「あなたはきょう、私とともにパラダイスにいます」 そうして、十字架の上でも救いのわざがなされたのです。




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栄光の望みキリスト その4
      2003年4月6日 野田 秀師 メッセージ     

新約聖書 コロサイ人への手紙 1章24節〜29節

そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。 キリストのからだとは、教会のことです。

注:「コロサイ人への手紙」は紀元61-62年頃に使徒パウロによって書かれ、 現在も愛され読み継がれている。今週は、連続メッセージの最終回。キリストご自身が、聖書の希望の中心であり、「栄光の望み」と呼ばれることを述べる。

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パウロの祈り
新約聖書の「コロサイ人への手紙」のなかで、使徒パウロが書いた祈りの一節があります。 パウロは次のように祈っています。「あなたがたが、神のみこころに関する真の知識に満たされますように」、 「あなたがたが、神を知る知識を増し加えられますように」。この祈りに見られる、"神を知る"とは いったいどんなことを意味しているのでしょうか。

神を知る、とは神の苦しみを知ること
私たちは聖書を読めば、聖書の啓示する神とはどのような方かを知ることが出来ます。 また、キリスト教に関する書物を読めば、聖書に表された神について学ぶことが出来ます。 しかし、"神を知る"ことは、そのように"知る"ことだけにはとどまりません。学ぶことの大切さを 否定するものではありませんが、さらに神の苦しみを知ること、その苦しみにあずかって生きること はさらに大切なのです。

キリストの苦しみ
神は、どのように苦しまれたのでしょうか。神は主キリストの地上の生涯において、その苦しみを 現されました。キリストが経験された苦しみは、貧困と、人へ尽くすためになされた労働だけにとどまりません。 さらに人に理解されない苦しみ、愛を注いだ相手に裏切られる苦しみ、責められる苦しみ、 自分の労苦がむなしく見える苦しみ、をキリストは体験されたのです。このような耐え難い苦しみを その身に負われたキリストを心に思い、自らのありようを変えていくことこそが、"神を知る"ということなのです。




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栄光の望みキリスト その3
      2003年3月30日 野田 秀師 メッセージ     

新約聖書 コロサイ人への手紙 1章24節〜29節

この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。

注:「コロサイ人への手紙」は紀元61-62年頃に使徒パウロによって書かれ、 現在も愛され読み継がれている。今週は、連続メッセージの第3回目にあたる。キリストご自身が、聖書の希望の中心であり、「栄光の望み」と呼ばれることを述べる。

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望みとは
私たちはこの地上の生涯において、さまざまなものに基礎をおいて、望みを持ちます。 ある人は自分の富に、ある人は自分のこれまでの業績に、希望を見出します。 あるいは、ある人は現在の自分自身こそが望みの基だと言うかもしれません。

聖書の希望とは
聖書の教える希望とは、どのようなものなのでしょう。地上にある望みは、もしかしたら いつかは失われるかも知れません。確実なものではないかも知れません。私たちは何を望みと しているでしょうか。人はその人生において、本物であるところの望みを持ちうるのでしょうか。

栄光の望み
教会の教える希望は、イエスキリストにあります。このお方こそが、「あなたがたの中におられるキリスト」 と聖書に書かれているとおりに、心の中に住んでくださる栄光の望みなのです。 キリストは人の心の中に、また人と人の愛の交わりの只中に、おられるのです。




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栄光の望みキリスト その2
      2003年3月23日 野田 秀師 メッセージ     

新約聖書 コロサイ人への手紙 1章13節〜23節

神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架 の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださった からです。

注:「コロサイ人への手紙」は紀元61-62年頃に使徒パウロによって書かれ、 現在も愛され読み継がれている。今週は、連続メッセージの第2回目にあたる。キリストご自身が、聖書の希望の中心であり、「栄光の望み」と呼ばれることを述べる。

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イエスの呼び名
今回とりあげた新約聖書中の「コロサイ人への手紙」には、イエスを あらわす、実にさまざまな呼び名が登場します。あるところでは"キリスト(救い主)"と呼び、またあるところでは"主"、と呼びます。他にもイエス、御子(みこ)、神の子、イエスキリスト....この呼び方の違いは何を表しているのでしょうか。


たとえば、聖書のある部分では"主"、という言葉がイエスを表わすのに使われています。 「コロサイ人への手紙」においては3章17節-4章1節がそうですが、"主"という言葉が 使われている箇所は、家族に関わること、夫として、妻として、親として子供として いかに生きていくかということを扱っている箇所なのです。つまり、家族のあるじを イエスキリストに定めることが勧められているのです。

御子
"御子"とはイエスのどんな側面を言い表しているのでしょうか。御子とはイエスを 最も敬意を持って表現した言葉です。つまり、イエスを単なる歴史上の人物として ではなく、神の御子として畏れ、敬い、日々感動を持って仰ぎ見ることが勧められています。なぜならこのイエスキリストなる神が、肉体をもって地上にくだり、十字架上の 苦しみによって神と人の和解を成し遂げてくださったからです。




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平安・将来・希望の計画
      2003年3月16日 広瀬 邦彦師 メッセージ     

旧約聖書 エレミヤ書 29章10節〜14節

それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与える ためのものだ。

注:「エレミヤ書」は南王国ユダにとって最も過酷であった「暗黒の時代」 に書かれた。上記の一節は、イスラエルの順風満帆のときではなく、かえって バビロン帝国に国を攻め滅ぼされた希望無き時代に告げられたものであることが、注目に値する。、

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神が与えたもう計画
私たち一人一人に、神は計画を持っておられます。それはわざわいをもたらすものではなく、 平安と将来と希望を与える計画なのです。私たちはその知恵の限界ゆえに、 神のご計画に身を委ねることが難しいのですが、神の備えられる計画とは実に不思議なものです。

一人一人の賜物(Gift)を生かす計画
神は、私たち一人一人に賜物(たまもの)を与えてくださっています。それは見た目に明らかな 才能とは限りません。
米国のラルフ・シャワーズは小学生時代に、知能指数84でやや愚鈍と判定されました。 彼は勉強をつづけてもむだだと告げられました。しかし、彼の両親はそれを受け入れませんでした。
「神はおまえをお造りになり、命を吹き込んでくださった。 神がおまえを信じていなさるのだから、私たちもおまえを信じているよ」
ラルフはこう言って両親から励まされつづけました。 だからといって、勉強が楽にできるようになったわけではありませんが、彼は人一倍努力して、 大学を卒業しました。やがてバプテスト教会の牧師となり、ハワイ、アリゾナ、カリフォルニアで 勤めを果たした後、知的障害者たちによる農場の建設を始めました。
 ラルフのビジョンと指導の元、「虹の土地」と名付けられた農場は、全米に9ヵ所、日本に1ヶ所と 拡大していきました。

絶望の中に輝く希望
冒頭の「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与える ためのものだ。」という一節は、順風満帆な人にのみ告げられたものではありません。 ここに告げられた希望は、イエスキリストによる希望であり、失望のときに励ましを与え、 暗闇にあるときに光り輝くものなのです。




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栄光の望みキリスト
      2003年3月9日 野田 秀師 メッセージ     

新約聖書 コロサイ人への手紙 1章9節〜23節

神は、私たちを暗闇の圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

注:「コロサイ人への手紙」は紀元61-62年頃、使徒パウロによって、ローマの獄中において書かれた。 現在も愛され読み継がれ、キリストによる救いをあますところなく伝えている。

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栄光の望みであるキリスト
コロサイ人への手紙は、以下の一節によりその主題を言い表されています。
「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」
今週から連続して、この栄光の望みとは何か、キリストとはどのような方かを探ってまいりましょう。

暗闇の圧制からキリストの支配
洗礼を受け、クリスチャンになるとはどういうことなのでしょうか。それは、単に自分の主義信条 が変わる、イデオロギーが変わることを意味しません。洗礼を受ける者は誓いの言葉によって 今まで親しんでいたさまざまなものから決別することを決意し、新しい生活を始めることを 宣言しなければなりません。キリストと聖書を道しるべとした人生を歩みはじめたとき、 使徒パウロは以前の道行きを「暗闇のようだ」と告白したのです。

神による罪の赦し
新しい生活を始めたとき、その人は他人とどのように関わっていけば良いのでしょうか。 聖書が勧めているのは、赦し合い、愛し合う関係です。他人を裁くのではなく、お互いに 寛容であることです。これは全く正しい神が、その正しいありようにも関わらず、人の 過ちを赦し愛していることから来ているのです。
あなたにもし赦せない人がいるなら、自分が神に赦され愛されていることを知り、その人にも 同じ赦しを与えよ、と聖書には書かれています。




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あなたより先に出ているから
      2003年3月2日 加藤 尚宏師 メッセージ     

旧約聖書 歴代誌T 14章8節〜17節

バルサム樹の林の上から行進の音が聞こえたら、そのとき、あなたは戦いに行け。 神はすでに、ペリシテ人の陣営を打つために、あなたより先に出ているから。

注:「歴代誌T」はバビロン捕囚までのイスラエル民族の歴史を綴ったもの。特に ダビデ、ソロモン、ユダの諸王の治世に焦点があてられている。

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ペリシテ人とは
本日の箇所は、イスラエル2代目の王ダビデが、宿敵ペリシテ人を打ち破りその治世を確立する場面です。 イスラエル民族にとって、ペリシテ人とは常に目の前に立ちはだかりその道を阻む難敵でした。

神への信頼
ダビデはなぜペリシテ人に対して勝利することができたのでしょうか。その答えは、 聖書によれば彼の祈りの中に、また神への従順の中に見ることができます。 そして何より「あなたより先に出ている」と言われた神への信頼が、勝利をもたらしたのです。

心のうちのペリシテ人
私たちの心のうちにも、ペリシテ人のような存在があるかもしれません。自分ではどうしようもない 感情、怒り、誰かを許せない心.....そのような自分自身に対して、私たちはある意味無力に 思えるときがあります。しかし神は、私たちの心の中のペリシテ人に対しても働きかけてくださいます。 「先に出ているから」という約束に身を委ね、不安を捨てることができるのです。




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信仰と思い違い その4
      2003年2月23日 野田 秀師 メッセージ     

新約聖書 ガラテヤ人への手紙 6章1節〜10節

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。

注:「ガラテヤ人への手紙」は使徒パウロがガラテヤ教会にむけて書いた手紙。 ユダヤの風習ではなく、キリストの福音による救いに立つように信徒を励ましている。

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ガラテヤにいたユダヤ人
ガラテヤ地方に住んでいたユダヤ人たちは、かつて使徒パウロが最初の伝道旅行で訪れたときに イエスキリストを宣べ伝えられ、信仰生活に入りました。しかしそののち、彼らはかつての慣れ親しんだ 因習に逆戻りしたのです。すなわち割礼と呼ばれる儀式を中心とした律法を厳守したものが 天国へ入れるとする考えです。

現在の律法主義
私たちは自分の功績でなく、自分の行ないでなく、ただイエスキリストなる神の恵みによって 天の救いに預かることができるのです。この一事を忘れ、ひたすらに正しさを追い求めるような ことはないでしょうか。正しくあろうとすることは良いことですが、それによって人生に救いと 心の平安を求めることはできません。

救いは神の恵みに
今日の聖句の中には、厳しく真理を突いた言葉が幾つかあります。「だれでも、りっぱでも ない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、自分を欺いているのです。」
私たちは、りっぱであろうとすること、正しくあろうとすることを否定はしません。しかし、 心の平安と安らぎは、ただ神の元より来るのです。



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信仰と思い違い その3
      2003年2月16日 野田 秀師 メッセージ     

新約聖書 マルコによる福音書 10章32節〜45節

あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者となりなさい。 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべとなりなさい。 人の子(イエスキリストのこと)が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕える ためであり、また多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるため なのです。

注:「マルコによる福音書」は、新約聖書に収められた、イエスキリストの伝記。

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この世の原理と、キリストの原理
「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者となりなさい。 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべとなりなさい。」
これはいかにも奇異に聞こえる箇所です。人の先に立ちたいならばそれにふさわしい 行動を取らなければならないのが、この世の常です。しかしキリストは、仕えられるよりも 仕える人生を、受けるよりも与える人生を、幸いだと言っています。

人の子が来たのも仕えられるためではなく
そしてキリストは、自分自身も弟子たちに仕えられる者ではなく、仕える者だと言ったのです。 また多くの人が期待していたように、イスラエルをローマ支配から解放するリーダーではなく、 人に仕え与える生涯を貫かれるために来た、と宣言したのです。

何を得たか、よりどのような動機だったか
私たちは、何を得たか、何を成し遂げたか、ということは神に問われないのかもしれません。 それよりもむしろ、どのような動機で事を成したか、が大切です。 そこに見返りの無い愛があるか、人に仕える心があったか。そのことを神は気にかけておられます。



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信仰と思い違い その2
      2003年2月9日 野田 秀師 メッセージ     

新約聖書 マタイによる福音書 22章23節〜40節

そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。

注:「マタイによる福音書」は、ユダヤ人の読者を特に意識し、旧約聖書からの 引用を最も多く含んでいる。本日の箇所は、旧約聖書に非常に詳しい者たちに向かって、キリストが言われた言葉である。

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またもや仕組まれた議論
今回の聖書箇所は、サドカイ人たちが「復活についての問答」と呼ばれる有名な議論を、イエスキリストに 対して仕掛けたものです。サドカイ人とはどのような人か、議論の中身はどのようなものか、については 省略します。ここで覚えておいて頂きたいのは、聖書に非常に詳しい人が、どうでもいい 些細なことにこだわり、また無用な議論で人を陥れようとしたということです。

聖書を知らない
サドカイ人たちは非常に熱心でありましたが、本当の意味においては聖書を知りませんでした。 悪意や傲慢が彼らの目を曇らせ、聖書の意味を取り違えて、その道行きを誤ってしまったのです。

神の力を知らない
また、サドカイ人たちは神の力も知りませんでした。神様は人の常識で測れぬお方であり、私たちの 予想を越えて豊かな恵みを与えてくださいます。
私たちも熱心に教会に通っていながら、聖書も神の力も知らなかった、ということにおちいっては なりません。聖書に書いてある真理の世界を、自分のものさしで小さくしてしまってはいけないのです。



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信仰と思い違い
      2003年2月2日 野田 秀師 メッセージ     

新約聖書 ヨハネによる福音書 8章1節〜11節

すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れてきて、真中に 置いてから、イエスに言った。
「先生、この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を 石打ちにするように命じています。ところであなたは何と言われますか。」
彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。 しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。けれども、彼らが問いつづけてやめなかったので、イエスは 身を起こして言われた。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者から 始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。 イエスは身を起こして、その女に言われた。
「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
彼女は言った。「誰もいません。」そこで、イエスは言われた。

「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

注:これはヨハネの福音書のうち、最も有名な聖書記事の一つ。通常はメッセージの鍵となる 聖句のみ引用しているが、今週はこの記事に関する全文をそのまま引用した。

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仕組まれた罠
ある女が律法学者たちに捕らえられ、イエスキリストの前に置かれました。 この律法学者たちは、実は女自身についてはどうでも良かったと言えるでしょう。 イエスが女を許すと言えばモーセの十戒に反し、女を罰すと言えば、イエスがつねづね説く愛に反します。 「イエスを告発する理由を得るため」とあるとおり、陥れようとしたのです。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に石を投げなさい」
イエスキリストが律法学者たちに発したこの言葉は、彼らの思い違い、思い上がりを鋭く指摘しています。 自分は罪を犯していない正しい者だ、という思い違いを見ることができます。 他にも、人の問題点を指摘することによって、自分が律法に熱心であり、より正しい者だという 大きな思い違いもあります。

正しいことは大事なこと、しかしそれよりも大きなことがある
自分の正当性を主張することだけが、私たちを豊かにする道ではありません。 正しくあることは大事なことですが、その正しさのゆえに、寛容であることや他人の弱さに目を向ける ことに失敗することがあるのです。真に正しく、かつ寛容である方は、この記事に見るとおりキリストただお一人です。

この女のように、私たちは神の愛と寛容のゆえに生かされて いるのです。そのことを覚え、いたずらに正しくあろうとするよりも、キリストの憐れみに倣おうではありませんか。



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私を導いてくださる神
      2003年1月26日 昭島教会 甲斐慎一郎師 メッセージ     

旧約聖書 第2サムエル記7章18節〜22節

神、主よ。私がいったい何者であり、私の家が何であるからというので、あなたはここまで私を 導いてくださったのですか。

注:「サムエル記」はイスラエル民族2代目にして最大の王、ダビデの治世(紀元前1075-975年頃) の歴史が描かれている。サムエルの名が付けられているのは彼が著者であることを意味せず、彼が その時代に顕著な働きをした預言者だからである。

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「あなたのために一つの家を造る」という約束
イスラエル民族の2代目の王、ダビデは偉大な王でした。先代悪王サウルから王位を奪い イスラエルを栄えさせたダビデは、偉大な軍人でもありました。そして戦いに明け暮れた半生であったが ために、自分の最も望んでいた神殿建設を許されなかったこの人物は、「主はあなたのために 一つの家を造る」(同11節)と神から預言者ナタンを通して語られるのです。

約束の成就
神殿建設を許されなかったダビデが、「一つの家を造る」という約束を受けました。 神は、約束を決して違えない方です。ダビデの息子ソロモンの治世に、イスラエル民族は かつてない規模の神殿建設を許されるのです。ダビデの家を栄えさせるという約束は歴史の中で 繰り返し果たされ、そして神は、ついに終わりのときに約束を永遠に成就されます。 ダビデの家系より、王の王、イエスキリストが現われるのです。

私たちも主の導きのなかに
ダビデは神の前に座し、告白しています。「神、主よ。私がいったい何者であるからというので、あなた はここまで私を導いてくださったのですか?」
これが私たちの信仰告白であるべきです。神は、私たちの半生をここまで豊かに導いてくださった。 その恵みは、私が何者であるかということによらず、ただ神の愛と憐れみによるのです。





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何をしてほしいのですか
      2002年12月29日 野田秀師 メッセージ     

新約聖書 マルコによる福音書10章35節〜45節

イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか」。

注:「マルコによる福音書」はイエスキリストの伝記の一つであり、特にイエスの奇跡 の数々を納めている。イエスの語られたことより、なさったことを強調していると一般に言われる。

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神が私たちに尋ねてくださる
この記事では、キリストが弟子達に「何をしてほしいのですか」と尋ねています。 私たちは聖書を読むときに、おおぜいの人がキリストに向かって、実にさまざまなことを願って いることを知ることができます。キリストはそれらの一つ一つを拒まれることなく、さらに 「何をしてほしいのですか」と私たちの方に尋ねてくださるのです。

大胆に願う
この後、ヤコブとヨハネはあつかましくも神の御座を望み、キリストにその過ちをさとされます。 彼らは求めるべきでないものを願いましたが、キリストは怒らず、優しく諭し、人に仕えることの 大切さを教えたのです。これは私たちが誤ったものを願っても、神は決して罰せず、導きをも 与えてくださることを示しています。

摂理を確信して生きる
人生は安楽ではありません。私たちの願うとおりに、事が運ばないことも、苦難もあるのです。 それは祈りが聞かれないのではなく、その中に神の摂理があり、その摂理を知り確信を持って生きる ことに導かれているのです。





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失われた人を救うために来た方
      2002年12月22日 野田秀師 メッセージ     

新約聖書 ルカによる福音書19章1節〜10節

人の子は、失われた人を探して救うために来たのです。

注:「ルカによる福音書」は医者ルカによって著されたイエスキリストの伝記。ルカは 多くの聖書記者の中で恐らく唯一の異邦人(ユダヤ人以外と言う意味)であり、 この書によってイエスの輝かしい生涯をギリシャ人に伝えようとした。

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神の御子がこの世に来た
クリスマスの意味を最も短い言葉で言い表すとどうなるでしょう。「来た」、この言葉が クリスマスの喜びと驚きを最も的確に表しています。イエスキリストが単に人として 誕生されたというだけではなく、「神が人として地上にやって来た」、これが教会の信じる クリスマスであることは先週述べた通りです。

失われた人を救うために来た
キリストはご自分が地上にやって来られた理由を、失われた人を救うためであると述べています。 この失われた人とは、神が失った人、神のもとにあるべきものが失われた状態になってしまった人、 という意味です。すなわち、神から心が離れて生きている人をさしているのです。

神は探しておられる
ザアカイは孤独な人間でしたが、神から見捨てられてはいませんでした。神はザアカイに目を 留めておられ、失われた彼の心を探しつづけておられたのです。私たちも、ザアカイがキリストに よって神に立ち返ったように、神に心を向けることによって、クリスマスの意味が分かるのです。 イエスキリストは失われた人である私たちのために、この世に来て下さったのですから。





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この世におられた御子
      2002年12月15日 野田秀師 メッセージ     

新約聖書 ヘブル人への手紙5章1節〜10節

キリストは御子であられるのに、お受けになった 多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえ の救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。

注:「ヘブル人への手紙」は著者不明、宛て先不明の書簡である。書かれたのが紀元70年 頃というのはほぼ疑いない。キリストの救いとは何かを解き明かした、偉大な書である。

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人として、この世におられた御子
既に先週・先々週に、クリスマスとは何か、を述べてきました。イエスキリストの誕生を祝う、という だけでなく、神が人となってこの世にやってきた、という(少し耳慣れない)意味を教会では 教えています。神が人となっただけでも大変な驚きであるのに、その後それだけに留まらず、 キリストはこの世で生涯を過ごされたということを聖書から学びます。

キリストは御子であられるのに
聖書には、「キリストは御子であられるのに、多くの苦しみによって従順を学ばれた」という ことが書いてあります。神は何ゆえに苦しみを受けられたのでしょうか、何ゆえに従順を学ばれた のでしょうか。そもそも、神ならば、苦しむことなどあり得るのか、あるいは何かを学ぶ必要などあるのでしょうか?

愛ゆえに共に歩んでくださる神、それがキリスト
「神が苦しまれた」という事実が聖書最大のミステリーであり、私たちの信仰告白であります。 キリストは、人と共に苦しむ生涯を選び取られ、私たちの前を歩んでくださいました。 キリストの大きな憐れみとは、 人への愛の具体的なあらわれとして、人と共に苦しみ、人の苦しみを背負うことだったのです。





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この世に送られた御子
      2002年12月8日 メッセージ     

新約聖書 ヘブル人への手紙 1章1節〜9節

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物 を保っておられます。

注:「ヘブル人への手紙」は著者不明、宛て先不明の書簡である。書かれたのが紀元70年 頃というのはほぼ疑い無く、一般に受け入れられている 解釈では、パウロが著者で、エルサレム居住のクリスチャンに宛てた手紙と言われる。

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「御子」とは誰か
新約聖書にヘブル人への手紙という書簡があります。これはユダヤ人に向けて書かれた手紙だと言われています。
この手紙にしばしば登場する「御子」(みこ)という言葉は、いったい何を意味するものでしょうか。


人が神になったのではない、神が人となったのだ
ユダヤ人の従来の価値観では、イエスキリストが神であることを認めることはできませんでした。 ヘブル人への手紙は、ユダヤ人に対し、イエスキリストが神であると宣言した書簡です。 先週のメッセージに書かれた通り、イエスキリストは「神が人となってやってきた」存在であるとし、 それを御子という言葉で表わしたのです。 この書簡は冒頭から、御子が万物の創造者であり、万物を保持しておられる方であると述べています。 キリストは私たちの創造者であり、また救い主でもあるのです。





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ひとりのみどりご
      2002年12月1日 メッセージ     

旧約聖書 イザヤ書 9章1節〜7節

ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。

注:イザヤは紀元前700年代に生き、救い主「メシヤ」が イスラエルに生まれる、という希望をイザヤ書に書き記した。

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神が人となって来て下さった
クリスマスというのは、何の日でしょうか。
イエスキリストの誕生日(あるいは誕生を記念する日)、これが一般に言われるクリスマスの 意味です。また、クリスマスは「イエスという歴史上の人物が生まれた」ということとは別に、「神が人となって 地上にくだってきた」という捉え方があります。


降誕、ひとりのみどりごとして
実はこの、「神が人となってやってきた」という耳慣れない考え方が、キリスト教会で教えられている クリスマスの物語なのです。
聖書に拠れば、神は人間と和解するために、何と自らの神の姿を捨てることができると考え、 赤ん坊となって生まれてきたのです。馬小屋に、貧しい夫婦の元に、最も弱き存在である赤ん坊として... それは神が負われたリスクであり、また人に示した愛でもあるのです。


愛、共に苦しむ
神が示した大いなる愛とは、人と共に苦しむことでした。イエスキリストはローマの圧政に苦しむイスラエルに生まれ、 祭司でなく大工として育ち、その生涯を多くの迫害の中で過ごしました。神の大きな憐れみとは、 人への愛の具体的なあらわれとして、人と共に苦しみ、人の苦しみを背負うことだったのです。

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心の輝き
      2002年11月24日 メッセージ     

新約聖書 コリント人への手紙第2 4章7節〜18節

「光がやみのなかから輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔に ある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。

注:「コリント人への手紙 第2」は後57年頃、激動の第3回伝道旅行中にパウロによって執筆された。 自分自身もコリントに行くことを切に望みながら、テトスに文書を託した。

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光が、やみのなかから輝き出でよ
聖書の天地創造の場面には、闇が覆っていた世界にまず「光」を創る神の姿が描かれています。 そして「光が、闇の中から、輝き出でよ」と言われた神は、人間の心が闇のようになったときも 光が創られ輝かせてくださる、という福音の約束を与えているのです。この光とは、イエスキリストであり、 福音というのもまさにイエスキリストです。

宝を土の器に入れている
聖書では、人間を土の器であると言います。人間ははかりしれない宝を、土の器に入れていると 言うのです。土の器、すなわち人間の肉体は日々衰えていきます。しかし光であり福音であるイエスキリスト を宝として、心に納めることができる器だと言うのです。

キリスト教信仰≒福音
「福音(ふくいん)」とは、本来は「喜ばしい知らせ、良い知らせ」、という意味を持つ言葉でした。

現在、この言葉は「キリスト教信仰」とほぼ同義に扱われることが多くなっています。 しかし、「福音」と「キリスト教信仰」の間には若干の違いがあります。

それは後者が「伝統的な、知られている教え」、というニュアンスを含んでいるのに対して、前者は「驚くべき、予想もしなかった ニュース」、という意味を持っているのです。
教会は「キリスト教信仰」を教える場所というよりも、「福音」を伝える場所、という方が その使命を正しく言い表していることになります。「土の器」である人間のうちに、闇で例えられた人の心のうちに、 光なるキリストが住まわれる。この驚くべき知らせが、クリスマスなのです。



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神のご計画
      2002年11月17日 メッセージ     

新約聖書 ローマ人への手紙8章26節〜30節

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って 召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 」

注:「ローマ人への手紙」は後57-58年頃、パウロによって執筆された。 当時の都市生活者たちに、キリストの愛を語り伝えた文書。

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摂理と運命
「摂理」とは一体どういう意味の言葉でしょうか。
辞書を引いてみますと、摂理とは
「神が人間に対して用意されたいろいろな出来事(それは必ずしも良いことばかり ではなく困難も含めているが)、最終的に人間を善き結論へと導く計画」
を意味します。
この摂理と似て非なる言葉に、「運命」があります。「運命」は 辞書によれば、
「超自然的な力に支配されて人の上に訪れるめぐりあわせ、天命によって定められた人の運」
とあります。

果たしてこの2つの言葉はどのように違うのでしょうか。



神のご計画
「摂理」と「運命」の違い。それは人を愛したもう神の臨在と、不在の違いでもあります。
摂理とは、人を悪い方ではなく良い方向へと導くものです。現実の人生には、 悲惨や困難があり得るのですが、最終的にはすべてを益となしたもう、最善の導き手である神に信頼 することが信仰です。
困難な出来事や苦悩をも、すべて神が用意されたということではありません。 与えられた自由意志の濫用により、人間自身が苦難を招くこともありえるからです。しかし神はどんなことも 益となしたもう方です。


キリストの招きとは
聖書には、神が「人をキリストと似た者とする」計画を持っておられると書かれています。
これはいったいどういうことでしょう?人は聖人君子のように生きることを心がけるべきだということでしょうか。 いえ、そうではありません。
人は生まれながらには、イエス・キリストの姿には似ていません。 キリストのような見返りの無い愛を、生来の性質として人間は持っていないのです。
しかし人間は、経験する様々な苦悩により、訓練されていく場合があります。
深い苦しみを経験することにより、愛無き者に愛する心と寛容が生まれ、憐れみ無き者に慈悲の心が生まれる。。。

聖書の「益と成したもう」という言葉は状況の好転をのみ差すのではなく、そのような輝きを持った忍耐の生活への 招きでもあるのです。